• 10 «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • » 12
Follow Every Rainbow
till you find your dream.
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
page top
純文学と大衆文学の違いって何だろうってずっと考えてきた。
もしも正しい答えがあったらこんな風に悩まないだろうし議論も生まれないだろうから、答えを探そうとすること自体ナンセンスなのかもしれないけど、そうやって考える行為が”文学する”ことだと思うから、少し頭の中を整理して書いてみる。


二者の違いについては色々な意見があるけど、私が賛同しているのは
「人のために書かれたのが大衆文学、自分のために書かれたのが純文学」

確かに推理小説のようなエンターテイメント作品は読者を楽しませるために書かれたもので、大衆文学と呼ばれることが多い。新書やハウツー本のような指南書が純文学と呼ばれないのも、人のために書かれているからかもしれない。

それに比べて、名作として読み継がれている作品は、登場人物(主に主人公)に作者の思想が反映されていたり、作品まるごと作者の人生観の写しだったりする。作者が自分と向き合って、絞り出し捻り出した思考の筋道がよく見える。そうやって小説として自らの思想や感情を作品化することに自己表現の術を見出して、生きる糧にしている。このようにまずは自己本位で、作者自身のために生まれたものが純文学と呼ばれているのかもしれない。


あとは、作品が純文学と呼ばれるようになるには時間がかかるということ。少なくとも30~40年はかかるんじゃないかと私は思ってる。漱石の作品だってはじめは新聞小説として世に出てきて、当時は大衆文学のように扱われてた。それが時間が経って、今は純文学として多くの人に愛されている。村上春樹の『1Q84』も出版されるや否やブームが巻き起こっていかにも大衆小説っぽいけど、それもあと30年位すれば平成時代を映した純文学小説として生まれ変わるのではないかと。いくら発売当初に売れても、時間が経つにつれて売れなくなる作品なんていくらでもある。時代に淘汰されて 生き抜いた作品が純文学として名を残すんだと思う。


短い人生の中で読める本は限られてる。私の場合は年間100冊しか読めない。それならばできるだけ良い本を読みたい。そこで今書いてきたような指標を持って、私は純文学と呼べるような作品を読んでいるつもり。でもそうすると21世紀の作品をほとんど読まないという偏った事態に陥ってしまうので、最終的には「バランス良く何でも読め!」ですかね。

何かを毎日続けるって本当に難しい。何をやっても続かない。
でも唯一読書だけは毎日続いているので、これからも日々書物と向き合っていきたいと思います。
スポンサーサイト
page top

コメント

管理者にだけ表示を許可する
 
Copyright © 2005 Follow Every Rainbow. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。